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執筆者の写真良太 小宮

「小学生の私と片麻痺」: ラクシオンの地図(立志編)【ルート9】



 私は祖父母の手厚いサポートで、のびのび育った。


 祖父母の家は歩いて20分ほどの距離。

 

 (私の記憶がある限り)小学生の頃からずっと、

 

 夕ご飯は毎日祖父母の家で食べていた。


 夕飯の時、祖父が「舌が痺れる」としきりに言っていたことを覚えている。


 その日は、お互い元気にバイバイした。


 

 

 翌日、


 

 祖父が脳卒中になった。


  

 私は、一度だけ病院へお見舞いに行った。


 じいちゃんは寝ているのか、


 あまり反応がなかった。


 何かわからないコードとかマスクとかがたくさんついていた。


 その後、何度も母に一緒にお見舞いに行こうと誘われたが、全て断った。


 その時は、


 なんだか、とても怖かった。




 いつものじいちゃんがもう戻ってこない気がして。



 祖父はリハビリ病院に転院した。


 その後、家に帰ってきた。



 右半身は麻痺となり動かない、喋れない


 どんなことにも介助がいるような祖父は別人にみえた。


 笑顔だけは、以前のじいちゃんと一緒だった。


 リハビリ病院でのリハビリによって、介助歩行まで可能となったらしい。



 しかし、祖父母の体格差はかなりある。



 祖母の小さなカラダで、大きな祖父を介助することは困難だった。


 だから、じいちゃんが介助で歩けるということに納得がいかなかった


 それから、夕ご飯を食べにいく度に、


 じいちゃんの手を握って、バイバイ


 と言うのが私の日課になった。


 じいちゃんはいつも笑顔を返してくれた。


 しばらくして、失語のあった祖父は、下肢の痛みをうまく訴えられず、その痛みや病変に気がついた時には、脚の切断が必要な状態だった。




 片麻痺、寝たきり、脚の切断。




 そして、


 ようやく私が理学療法士となり、



 大学病院へ入職してすぐ、



 じいちゃんは天国へ行った。



 理学療法士としての知識や技術を、


 じいちゃんには伝えられなかった


 じいちゃんには何もできなかった


 だから、


 私は、


 ラクシオン.を通して、


 最善のトレーニングを通して、


 

「できない」を背負うのではなく、


「できない」を源に


「できない」を糧に


「できる」を実現したい


 そして、


 楽しくアクティブな毎日を


 これが、ラクシオンの地図【ルート9】




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