top of page

「小学生の私と片麻痺」: ラクシオンの地図(立志編)【ルート9】

  • 執筆者の写真: 良太 小宮
    良太 小宮
  • 2022年1月8日
  • 読了時間: 2分

ree


 私は祖父母の手厚いサポートで、のびのび育った。


 祖父母の家は歩いて20分ほどの距離。

 

 (私の記憶がある限り)小学生の頃からずっと、

 

 夕ご飯は毎日祖父母の家で食べていた。


 夕飯の時、祖父が「舌が痺れる」としきりに言っていたことを覚えている。


 その日は、お互い元気にバイバイした。


 

 

 翌日、


 

 祖父が脳卒中になった。


  

 私は、一度だけ病院へお見舞いに行った。


 じいちゃんは寝ているのか、


 あまり反応がなかった。


 何かわからないコードとかマスクとかがたくさんついていた。


 その後、何度も母に一緒にお見舞いに行こうと誘われたが、全て断った。


 その時は、


 なんだか、とても怖かった。




 いつものじいちゃんがもう戻ってこない気がして。



 祖父はリハビリ病院に転院した。


 その後、家に帰ってきた。



 右半身は麻痺となり動かない、喋れない


 どんなことにも介助がいるような祖父は別人にみえた。


 笑顔だけは、以前のじいちゃんと一緒だった。


 リハビリ病院でのリハビリによって、介助歩行まで可能となったらしい。



 しかし、祖父母の体格差はかなりある。



 祖母の小さなカラダで、大きな祖父を介助することは困難だった。


 だから、じいちゃんが介助で歩けるということに納得がいかなかった


 それから、夕ご飯を食べにいく度に、


 じいちゃんの手を握って、バイバイ


 と言うのが私の日課になった。


 じいちゃんはいつも笑顔を返してくれた。


 しばらくして、失語のあった祖父は、下肢の痛みをうまく訴えられず、その痛みや病変に気がついた時には、脚の切断が必要な状態だった。




 片麻痺、寝たきり、脚の切断。




 そして、


 ようやく私が理学療法士となり、



 大学病院へ入職してすぐ、



 じいちゃんは天国へ行った。



 理学療法士としての知識や技術を、


 じいちゃんには伝えられなかった


 じいちゃんには何もできなかった


 だから、


 私は、


 ラクシオン.を通して、


 最善のトレーニングを通して、


 

「できない」を背負うのではなく、


「できない」を源に


「できない」を糧に


「できる」を実現したい


 そして、


 楽しくアクティブな毎日を


 これが、ラクシオンの地図【ルート9】




 
 
 
bottom of page